祇園祭の歴史〜近代
幕末から明治維新期、再び危機が訪れる。元治元年(1864)禁門の変によって起こった大火「どんどん焼け」は再び京の町の多くを焼いた。そしてこの大火で長く復活できない「焼山」が生じてしまう。
二次世界大戦でも祭は自粛されるが、昭和21年に祇園囃子が八坂神社に奉納され、翌年、2つの鉾が復活した。以来、年とともに見物客は増加し、昭和31年には巡行路を変更、昭和41年にはそれまで2回に渡って行われていた祭(前祭・後祭)を一本化した。理由は年々増加する自動車の交通規制だが、これは神幸と還幸という祭本来の意味を曖昧にするもので、「信仰か観光か」の大議論を巻き起こすこととなる。結局、前祭の日に一本化され、後祭の日には山鉾巡行の代わりに山鉾の原形を復活させたといえる「花笠巡行」が行われるようになった。
幾度の困難を乗り越え、1200年の時を経て今に至る祇園祭だが、どの山鉾町でも都市のドーナッツ化現象に伴う住民の減少、祭に従事する人々の高齢化、経済的負担の増大など難題が山積している。京都の中心部である山鉾町の地域は戦後、高層ビル化が続き、早くに町内の夜間人口がゼロになった場所もある。府や市から祭りの運営・維持保存に対して補助金が交付されているが、とりあえずアルバイトやボランティアで補っている山鉾も少なくない。
祭期間中にあちこちで複雑に展開される行事の裏には、巨大な都市祭礼を支える細かな仕組みが存在する。それは伝統という長い時間から集積されてきたものだけでなく、現代的な要求から生じたものも多い。この相反する要素をうまくまとめ、問題なく機能させてしまうのが、日本最古の都市、京都なのである。
